医療ジャーナリスト 田辺功

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田辺功のコラム「ココ(ノッツ)だけの話」

2020年8月24日

(368)あれから75年も経ちましたが

 あれから○年、とうたった新聞記事がやたらと目につきます。このところ多いのが「75年」。75年前といえば、第二次世界大戦の終わる1945 (昭和20) 年です。前年からの各地の空襲が本格化し、広島、長崎の原爆、そして終戦記念日と続きました。
 都市の空襲は多数の住民を殺し、日本人の恐怖感を煽る目的でした。東京は1945年 3月の死者10万人以上とされる東京大空襲をはじめとして106 回、大阪は33回、神戸は128 回、名古屋は63回など全国の都市に爆弾が落ちました。
 5月のブログで紹介したように、ちゃんとした家庭の子どもが空襲で家族を失い、戦争孤児、浮浪児となりました。私は1945年 5月に横浜、 8月に富山と 2回の空襲に会いましたが、孤児にならなかったのは本当に幸運でした。
  8月 6日は広島、 9日は長崎の原爆で、計21万人もが亡くなりました。命は助かったものの放射能を浴び、がんなどの後遺症の可能性のある人たち22万人に国は被爆者手帳を交付しています。ただし、それには居住地などの条件があります。爆心地から離れているからと国が認めなかった人たちを広島地裁が75年目の今年 7月29日、被爆者と認めました。放射能を含む雨を浴びたことから「黒い雨」訴訟と呼ばれています。水俣病などもそうでしたが、国はいつも個人差を無視して最少になるよう線引きします。一方的な被害国民への冷たい対応は残念です。
 米軍は、戦争を早く終わらせるために空襲や原爆は不可欠だったと主張しています。しかし、1942年 6月のミッドウェー海戦での惨敗から、日本の敗戦は必至でした。都市の空襲や原爆は日本人への懲らしめや、新兵器の実験のようなもので、不必要に尊い人命を失わせました。戦争に名を借りた犯罪のようなものでしょう。
 かつては米国民の85%が「原爆投下は必要」と考えていましたが、近年では 6割ほどに減り、とくに若者は疑問視している、との報道もありました。グッドニュースではありますが、75年もかかってやっと、との思いもあります。世界各地での爆撃も相変わらず続いていますし…。

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