田辺功のコラム「ココ(ノッツ)だけの話」
(236)ノーベル賞、日本は騒ぎすぎ?
毎年10月から12月はノーベル賞の季節です。政治部や社会部の記者にとっての選挙と同様で、科学部記者時代、ノーベル賞は本当に部をあげてのお祭でした。日本人がいないと内輪の残念会ですみましたが、受賞すれば大変。記事だ、特集だ、座談会だ、関連の科学ニュースだと、忙しい思いをさせられたものです。
2017年の文学賞は日本生まれ英国在住の作家カズオ・イシグロさんでした。この件に関して「沸く日本 静かな英国」との見出しの記事 (『朝日新聞』12月19日) が目につきました。日本では連日、大騒ぎなのに英国では大きな記事は少なく、ほとんど騒がれなかったと、両国の違いが描かれていました。
私が直接関わったのは81年の福井謙一さん、87年の利根川進さんでしたが、実は80年代から同じ思いがありました。というのは米国ではまだ全国紙がなく、米西部で暮らす日本人研究者はニューヨークの研究者が受賞したことを知りませんでした。しかも、カリフォルニア大学ロサンゼルス校などは20人とかそれ以上の受賞者が在籍していて、ノーベル賞など珍しくもない状況と聞いたからです。
ところが日本は逆です。毎年のように受賞者が出るようになった2000年以降は、ノーベル賞はどんどん大きなニュースになっています。新聞社も候補者の予定稿を次々に作ります。文学賞候補の村上春樹さんの残念会が毎年大きく報じられます。あらゆる賞のなかでノーベル賞が特別の意味を持つようになり、ノーベル賞候補の声が高まると国内の他の賞を受けやすくなります。賞金額が上がったこともあり、米国でもノーベル賞への一般国民の関心は高まっているともいわれてはいます。
日本人のノーベル賞騒ぎの半分はやはり報道のせいでしょう。日本のメディアは自分で評価せず、権威の評価、意向を絶対視しがちです。こんな商品が便利、といった記事は責任を伴いますが「○○賞を受賞した」のはニュース扱いできます。たとえ、お金を出せばもらえる賞、ほとんど日本からの応募しかない国際賞でも、です。フランスの有名ブランドを買うのはほとんどが日本人女性、という話も聞きます。
メディアに限らず、日本人は他人の評判や評価に弱い、ということでしょうか。自分の目に自信がないのかも知れません。
新たに迎える年には、私も健康・元気とともに自信も回復したい、と思いました。