田辺功のコラム「ココ(ノッツ)だけの話」
(100)親の責任、見直しは当然
見直し必至、とされていた裁判で、最高裁が常識的な判断を示しました。小学生が校庭で蹴ったサッカーボールが道路に出て、80代男性のバイクが転倒し、その後、死亡した2004年の事件です。遺族が賠償請求訴訟をし、一審に続いて2012年の大阪高裁が両親に賠償を命じていました。最高裁は4月9日の判決で、「直接の監視下にない子の行動について、親は予想できない事故にまで賠償責任はない」と遺族の請求を退けました。
裁判官は常識を知らない、というのは、それこそ常識でしょう。多くはすっかり忘れているのですが、取材時にそう感じた判決がいくつもありました。
親が目を離したすきに公園の池に子どもが落ちて亡くなった事件が関西でありました。判決は、池に柵を張らず、危険を放置した市の管理ミスだとして賠償を命じました。裁判官が親に同情したのでしょうが、公園の池に柵が増えました。私は、これだと日本の海岸にはすべて柵が必要になる、と思ったものです。
だれもが驚くような手抜き、ボンクラ判断は責任を問われても当然です。しかし、偶然がいくつも重なった予想外の事故でも、親は設備や管理不十分として、学校や教師に賠償を求めます。催しでは、管理者や警備の責任を追及し、しばしば賠償請求訴訟が起きています。遺族の涙ながらの話を聞けば、裁判官も心動かされ、できれば賠償してあげたい。日常に「完璧」はありません。不十分だった点を取り上げ、それを強引に結果に結びつけ、関係者の責任を強調すれば、何とか理屈は整います。
逆ケースとして思い出すのは、JR東海が認知症の遺族からの損害賠償を認められた昨年4月の名古屋高裁判決です。認知症老人が列車にはねられたのに、介護の責任が遺族にあるとした判断です。JR東海の職員の訴えがすばらしく感動的だったのでしょうが、常識からは外れた判決です。
事故が起きたら賠償金を取れる、といった風潮は困ったことです。防衛のためには、校庭でのサッカーは禁止、学校での体育や遊び制限、公園は子ども禁止、催しはやめる、認知症患者は外出させない、となりがちです。楽しくない社会になってきた一因はこうした裁判にあったのかも知れません。