医療ジャーナリスト 田辺功

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田辺功のコラム「ココ(ノッツ)だけの話」

2020年11月9日

(379) 親の会がこんなに長く続くとは

 かつて親しくお付き合いしていた方の訃報は本当に悲しいものです。取材先の方々は何歳も年上が普通なので、80代、90代がほとんどですが、まれには同年輩や若い人がいて、驚かされます。川崎病の子供を持つ親の会の浅井満代表がその 1人です。会報「やまびこ通信」10月15日号の記事によると、 9月27日、72歳で亡くなられました。肝臓がんだったとのことです。
 東京女子医大は1978年、心筋こうそくを起こした川崎病後遺症の子どもに母親の血管を使った初めてのバイパス手術を試み、私が取材しました。それが浅井さん、幸子さん夫妻の 4歳の長男隆君で、残念ながら翌年に亡くなりました。1982年、浅井さんはその詳細な闘病記録を自費出版しました。医師の多くも川崎病を知らない時代、患者家族が浅井さんに相談するケースが増えたのは当然です。同年 9月、そうした家族が集まり、親の会が発足しました。
 それからの浅井さんの熱心な活動は驚嘆に値します。突然の病気に不安な家族に親の会のあることを知ってもらおうと、地域での相談会をひんぱんに開き、浅井さん自身が相談に応じました。親の会は、わかりやすい川崎病の解説書を何冊も出しました。また、未だに原因不明の病気の解明、さらには治療に役立てようと、患者のデータや研究を収集・整理し、患者会の国際交流、病院や医師への協力なども続けました。
 浅井さんは医師との強い絆も重視していました。川崎病関連の学会や研究会のほとんどに参加し、親の会代表として発言もしました。今年 6月に亡くなった、病気の発見者、川崎富作先生ともずっと親しく、日本川崎病研究センターの理事も務めました。
 親の会の発足時、浅井さんは「この病気がなくなり、この会が無意味になる日まで頑張りましょう」と挨拶しました。浅井さんはどのぐらいを想定していたのかな、なんてつい考えてしまいました。

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