田辺功のコラム「ココ(ノッツ)だけの話」
(276)ノーベル賞と基礎科学研究費
10月に入るとノーベル賞の季節です。第一線現役の時代は科学系3賞の発表日は緊張しました。今はネット公表が早いですが、当時は何時間か後の外電を待てず、受賞者への電話連絡をキャッチする競争でした。私が直接取材したのは1981年の福井謙一・京大教授 (化学賞) 、1987年の利根川進・米マサチューセッツ工大教授 (医学生理学賞) だけ。日本人の受賞は今と違ってめったになく、残念会が恒例でした。本庶佑・京大特別教授が今年の医学生理学賞に決まったのは明るいニュースです。
受賞のラッシュが始まったのは2000年以降ですが、山中伸弥・京大教授のiPS細胞を除く化学賞、医学生理学賞は、個人的な興味や偶然から始まった基礎研究の予想外の成果でした。20年、30年前の日本人研究者は本当にすごかった、と思います。
日本のその基礎研究力が弱まっている、といわれます。数年前から一部の研究者、国際科学雑誌の特集があったことや、さらには2016年に受賞した大隅良典・東京工業大学特任教授らの指摘を思い出します。国の経費削減で国立大学の基礎研究費が年々減り、研究職・教育職の採用数が減り、論文の引用件数が減っています。政府の大型研究は「イノベーション」 (技術革新) 重視と称して目先の成果重視の配分になってきています。そのうえ政府の研究費の目玉である「戦略的イノベーション」対象の公募研究12件のうち10件が、実は公募前に選ばれていたという驚くべき事実も今春、明るみに出ました。
ごくまれに私も選考委員を務めたことがありますが、研究の評価は非常に難しい仕事です。研究の細部は専門分野を離れるほど判断が難しく、まして研究者自身もわかっていないような発展は予測困難です。忖度 (そんたく) の日本では、選考する大御所の研究者は自分や友人のお弟子さん、後輩か、たまたま知っていたり、話し上手な研究者を選びがちです。研究の成果が出ても出なくてもわかるのはずっと先の話ですが、最初から無責任では困ります。もっと公平な選び方ができないか、欧米の事例を参考に、真剣に考える必要がありそうです。政府の「選択と集中」策も、配分を受ける研究者を減らすことにつながります。