田辺功のコラム「ココ(ノッツ)だけの話」
(241)飛鳥・高松塚古墳を訪れて
私は先日、奈良県明日香村の高松塚古墳を訪れました。先週報告した大学での授業の前日、1月22日のことです。新聞に壁画の修理作業室公開の記事があり、急に行って見たくなりました。
というのは実は私は高松塚古墳とは切っても切れない関係があるからです。1972(昭和47)年3月の発見時、私は朝日新聞奈良支局の文化財担当記者でした。発見の第一報を書いたのはこの私で、記事は3月27日付けセット版(朝夕刊地区)の1面トップに載りました。私にとって初めての1面トップ記事でした。
奈良県立橿原考古学研究所の発掘事業だったことから、記者会見に出席したのはすべて地元記者でした。当時の支局長は社会部出身で文化財に無知でしたが、私ともう1人の記者が「これは大変なニュース」と騒ぎました。結果は『朝日』と『産経』が 1面、『読売』は3面など、扱いは各紙バラバラ。会見に出ず、まったく報じなかった『共同』記者が更迭、といった事件もありました。27日からわが社は大阪本社学芸部と社会部など、各紙とも本社取材になり、支局記者は雑事の手伝い、に格下げされました。
私はその後、大阪本社学芸部に転勤しましたが、その時の反発もあったのか、多少は色気のあった文化担当記者を目ざさず、科学・医療記者の道を選びました。その後、飛鳥は家内の車で2度ほど訪れましたが、高松塚古墳周辺は寄りませんでした。
近鉄飛鳥駅から高松塚古墳は歩いてすぐですが、一帯は素敵な公園地帯に変わっていました。高松塚壁画館には石室の模型が展示されています。会見の日、隙間からのぞいた本物の石室正面には玄武の絵がありましたが、そのままの模型でした。さらに左右の壁の群像の模写が展示されていました。
壁画の修理施設もさほど遠くない場所です。石室の石壁が切り取って並べられ、壁画の修復作業が続けられています。通路の窓ガラス越しに見るのですが、女性や男性の群像の色は薄くなり、消えかかっているように見えました。壁画のかび、保存方法、修理とこの40数年にやはり複雑な思いがあります。