田辺功のコラム「ココ(ノッツ)だけの話」
(172)パラリンピックにはちょっぴり違和感
リオ五輪に続いてのパラリンピック、なかなかの盛り上がりようでした。新聞やテレビはオリンピック同様、どの競技でもメダルが取れたかどうかで大騒ぎです。
障害者のスポーツそのものはとてもよいことだと思います。しかし、選手が「メダルを取るためにしてきた何年もの努力が報われた」など泣きながら話すのを聞くと、違和感を感じてしまいます。
パラリンピックの種目はどうやって決まったのでしょうか。障害は個人によってまったく違います。同じ足の障害でも場所や形によって動く範囲や不便さも違います。義足などの装具をつけて走ったり跳ぶにしても、義足作りの難易度、技術で能力の回復は差がつきます。どれだけ頑張っても走れない障害者と、走れる障害者が分かれます。同じタイプの障害では、もともとは程度の軽い人ほど有利なはずです。
障害者競技はどのくらいの人が行っているのでしょうか。能力の高い義足を得て運動できるのはお金のある先進国の障害者だけではないでしょうか。足の障害で動けない人たちの何割が、パラリンピックの選手を自分たちの代表と思っているか気がかりです。
障害の原因病は無限といっていいほどたくさんです。視覚や手足、精神障害などより重い難病者の競技はいくつあるのでしょうか。ほとんど歩けない病気向けの「5メートル歩行」とか「2メートル走」などはなくていいのでしょうか。歩行や水泳は病気ごとに何百、何千種目が必要ではないでしょうか。
運動オンチの私にオリンピックは無縁ですが、遅く走ったり、短く跳んだり、一応は共通の基盤がありますが、パラリンピックはずっと不公平な感じがします。
障害者がリハビリに努め、機能向上をめざすのはいいことです。その結果、出場者に、あるいは上位10人に入賞メダル、でも十分ではないか、という気がします。友人に話したら「メダル競争がなければヒーローになれないし、お金をかける意味がない。ばかばかしくて皆やりませんし、国もお金を出しませんよ」と笑われました。そういえば、メダル数の圧倒的1位は中国だったそうです。