田辺功のコラム「ココ(ノッツ)だけの話」
(167)警察の捜査の行き過ぎ
警察の捜査のやり方を問うニュースが続いています。日本は無実の人に刑罰を課す「えん (冤) 罪大国」です。以前、自供に偏る警察の言い分をそのまま受け入れると裁判官の無責任を嘆いた記憶がありますが、元々は警察の捜査法の誤りが出発点です。
1995年、自宅の火事で11歳の少女が焼死。大阪府警は保険金目当ての放火、殺人と見て母親と内縁の夫を逮捕、2006年最高裁で有罪判決が確定しました。しかし、2人は早くからえん罪と主張していました。警察の最大の根拠は放火したとの夫の自供でしたが、弁護団は実験から自然発火の可能性が高いと主張、8月10日再審の大阪地裁はそれを認めて無罪と判決、確定したものです。自供を引き出す取り調べにも無理があったようです。記事には、戦後に死刑か無期懲役が確定した事件での再審無罪の9件目、とありました。
数日前の8月5日には、福岡高裁宮崎支部が鹿児島県警の違法取り調べを認め、おどされたり、ウソの供述を求められた住民6人に損害賠償を命じました。2003年の県議選違反事件そのものもでっち上げらしく、全員無罪になっています。
私は事件記者ではないので個々の事件に詳しくありません。ただし、医療記者の目からは、少なからぬ医師が、病気や患者を治すことを忘れているように見えます。過労気味の職場とはいえ、医師の目標や仕事の目的への思いが希薄になっていないでしょうか。
警察官の目的も医師同様、あいまいになっている気がします。「疑わしきは罰せず」が刑法の原則といわれます。事件をでっち上げたり、無実の住民を罰することが、どんな理由で許されるのでしょうか。犯罪や非行歴がある、あるいは外国人などは、怪しい人物として常に疑われ、そのことで犯罪に追い込まれやすくなります。検挙率を上げるために微罪・形式的な事件を増やすのも疑問です。スピード違反の検挙が交通安全より罰金稼ぎが目的という話もあります。
警察は住民の味方であってこそ、住民の協力や支持を得られ、社会の安全の確固たる基礎になります。権力を持つ人たちがその権力を住民のために適正に行使することが重要だと痛感する毎日です。