田辺功のコラム「ココ(ノッツ)だけの話」
(124)今は昔、薬害エイズ事件のころ
9月27日付け朝刊を見て驚きました。元東京大学教授の郡司篤晃さんが17日に亡くなっていたとの記事があったからです。1カ月ほど前には著書『安全という幻想 エイズ騒動から学ぶ』と手紙をいただき、懐かしく「薬害エイズ事件」を思い出していました。いずれお会いして、と考えていましたから、まさかの思いでした。
私は科学部記者でしたが、米国で発生した奇病エイズに関心を持っていました。1983年6月、安部英・帝京大学教授を班長とするエイズ研究班を立ち上げたのが厚生省 (当時) 生物製剤課長の郡司さんでした。ちょうどその時期、米国からの輸入血液を材料とした血液製剤から血友病患者の4割がエイズに感染しました。
この薬害エイズ患者の救済が問題になり、数年から10年後、極悪非道の感染の主犯とマスコミがやり玉に挙げたのがまず安部さん、続いて郡司さんでした。あの頃のマスコミは異常でした。当時を全く知らない記者が書き、実際に現場にいた記者の発言は無視され、安部さんと親しかった私は取材も禁じられました。一方的な攻撃本が称賛され、ベストセラーになりました。安部さんはエイズ感染率を見誤り、考え方、話し方こそ権威的でしたが、患者のため、も徹底していました。
研究班発足の直前、米国で血液製剤の回収事件がありました。NHKテレビは「それを知っていれば私の考えは変わった」という班員の言葉付きで、郡司さんが研究班に報告しなかったと批判報道しました。ところが、後に会議のテープで報告されていたことが確認されましたが、明確な訂正はなかったようです。後の首相、菅直人・厚生大臣のパフォーマンス「郡司ファイル」も、郡司さんの証拠隠しを印象づけました。
国民の多くは今も、安部さん、郡司さんを極悪人だと思っているはずです。郡司さんの遺書ともいうべき著書には、本当のところを知って欲しい、そうでなければ死に切れないといった気持ちがあふれています。
何年か前、私は薬害エイズ事件を本にするために、郡司さんに当時のことをくわしく聞きました。原稿はできたのですが、声をかけたいくつかの出版社からは「悪人に味方するような本はだめ」「昔のことを今さら」と断られました。期待されていた郡司さんにはすまなかったと、おわびしました。