田辺功のコラム「ココ(ノッツ)だけの話」
(55)まだ生々しい被災地の傷
東日本大震災からもう3年が過ぎました。私も役員をしている日本医学ジャーナリスト協会主催の取材ツアーがあり、3月30日、31日の2日間、宮城県と福島県を訪れました。傷跡は大きく、まだまだ生々しく、復興は進んでいない印象でした。
宮城県では気仙沼市、南三陸町、石巻市、女川町、仙台市、名取市、岩沼市、山元町、福島県では新地町、相馬市、南相馬市などをバスで回りました。
当時の映像で家や車を流す津波に驚きましたが、名取市閖上(ゆりあげ)地区や仙台市荒浜地区などは見渡す限り荒れ地のまま。閖上震災を伝える会の写真集では、同じ場所から撮影した震災前と後のカラー写真が並んでいます。道の両側の家並がすべて流され、わずかな瓦礫が残っているだけ。遠くの橋が見え、同じ場所と確認できないほどです。「津波は水の岩」で、ぶつかると木造の家は瞬間的にバラバラになるそうです。
さて再建です。現地再建を決め、賛否でもめる閖上、大がかりな盛り土をする女川、約10メートルの防潮堤を作った気仙沼、広大な公園にする岩沼市とさまざまです。海に囲まれた日本、全国の海辺の町はどんな予防策をすべきでしょうか。
児童・教職員84人が犠牲になった石巻市の大川小学校。本当に北上川べりでした。津波は川に沿って上がるのは常識ではなかったのでしょうか。一方、山元町中浜小学校では校長が判断、屋根裏部屋に児童・住民約90人が避難、全員が助かりました。運・不運はありますが、機転や行動も大事と実感しました。
福島原発は津波以上に深刻でした。常磐線小高駅 (南相馬市) 付近は宿泊禁止で、ほとんど無人の町。高校生たちが放置したままの何百台もの自転車が哀れです。
桜井延勝・南相馬市長は「原発事故は考えられないほど地域や家族を分断した。廃炉技術も確立していないのに原発再稼働は許されない」と話していました。